アルバニアってどんな国? 前編
- 2024年10月6日
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更新日:2024年11月17日
つい先日オーストリアでは極右政党が第1党になったようで(とはいえ過半数は取れていないようだが)、移民問題なんかもあるのかな、とかなんとか思っていたところ、つい気になってしまいました。「ヨーロッパの宗教事情って、今どうなってるんやろ」と。
やはり、キリスト教系が大半を占めているみたいですね。やはり、いくらなんでもどの国家もキリスト教がトッ……プ……?おや?1か国だけ、イスラム教が過半数を占めている国家があるぞ?
と、いうことで今回から、私が文責を担う回を2つか3つ費やしまして、「欧州の中で唯一ムスリムが過半数を占める国家・アルバニア共和国」についてお話していきます。
そもそも、アルバニアという国家がどこにあるか知っていますか?アルメニアとよく混同されますが、アルバニアはバルカン半島のアドリア海側に位置している国でして、とある戦略ゲームでは、イタリアに併合されるイベントが時報と化しているあれです。
紀元前500年ごろ、この地域には「イリュリア人」と呼ばれる民族が存在していました。イリュリア人は、ギリシア人やトラキア人とともに、古代バルカンにおいてメジャーな民族でありました。そんなイリュリア人によるイリュリア人の王国が、紀元前450年ごろに成立しました。どうも、文献に残っている限りでさかのぼることのできる限界がこの前450年頃成立のイリュリア王国なようで、さらにその初代がバルデュリスと呼ばれ、90代まで生きていたとされる人物です。そんな王国、じつは一時的に、マケドニア王国を支配下に置いたのです!!!しかし、フィリッポス2世により追い出された上に、バルデュリスは死亡、アレクサンドロス3世(大王)の時代には逆に支配下に置かれることになります。
やはり、どうしてもギリシア人(およびローマ人)からは嫌われ、敵として文献に登場しがちなため、日本語文献がそこまで多くない現在では、正確な情報を見つけ出すのは正直なところ、難しいものです。
その後、共和制ローマの時代に征服されると、その後はローマ帝国、東ローマ帝国とその地の歴史は長きにわたり、ローマの支配下に置かれます。
その統治の間に、アルバニアは「アルバニア」と呼ばれるようになっていくのですが、「アルバニア」について言及した史料は非常に少なく、民族集団としてアルバニア人に言及した史料だと、現段階では11世紀ごろのものが初めてのものとなっているほどです。
話を戻しましょう。第4回十字軍の時期に一時的な独立を果たすも、東ローマの後継国やブルガリア帝国により領土が分割されていくことになりました。しかし、シチリアの晩鐘事件で有名なアンジュ―公シャルルが、アルバニア一帯を制圧し、この地に「アルバニア王国」が成立しました。しかし、東ローマ帝国と対立する中で領土を失ったり、取り戻したり、狭くなった領地ではカトリックが広まったりと、研究対象としては面白そうな歴史をたどっていきます。
しかし、転機は訪れます。オスマン帝国の侵攻がまさにそれでした。バルカン半島へと手を伸ばし始めたオスマン帝国は、遂にアルバニア地域にも進出してきます。そこで登場したのが、「スカンデルベグ」という人物でした。
スカンデルベグといえば、アルバニア国旗に描かれている黒い双頭の鷲、あれの名前ですね。
スカンデルベグについても解説したいのですが、足りなくなるのでまたの機会に。簡単にだけ説明すると、貴族で人質としてオスマン帝国軍としても活躍し、人質生活が終わって帰ってくるとアルバニア地域を統一させ、オスマン軍に抵抗し続けた人物です。
ハンガリーやワラキアとともにバルカンの中でもオスマン帝国に抵抗し続けたアルバニア、戦に勝てても、食料が足りませんでした。ヴェネツィアや周辺国家と同盟を結ぶことで抵抗をつづけましたが、スカンデルベグは病死。その後10年程の抵抗を行うも、むなしくオスマン帝国に併合されてしまいました。このころに、アルバニア人貴族のほとんどはイスラム教に改宗したため、現在でもムスリムが多いのですね。
そして、1878年の(一番有名な)露土戦争まで時を飛ばします。やはり、アルバニアでは、ナショナリズムの形成が遅れていたのですが、オスマン帝国の弱体をみたアルバニア人たちは、「アルバニア人の土地がマケドニアやセルビア、コソボなんかに奪われるかもしれない」という危機感もあったのでしょう、民族運動が活発化していきます。ビスマルクには、「アルバニアなんてない。地理的概念だ」とまで言われました。独立自体は、バルカン戦争後まで叶わなかったものの、アルバニア人は強く抵抗をつづけ、1910年と1911年、そして1912年の反乱は、オスマン帝国の政治方針へ影響を与えます。(そのほか様々要因はあったのでしょうが)オスマン帝国青年トルコ政権においてパン=イスラム主義からパン=トルコ主義への転換を行わせたのです。
1912年のアルバニア反乱において、アルバニアはついにオスマン帝国から独立を果たしました。スカンデルベグ公国の旗であった黒い双頭の鷲が掲げられ、現在も続く国旗になっていたのです。貴族には、ドイツ人貴族が迎えられ、これからというタイミングで、目と鼻の先で事件が起こりました。「北エピロス独立宣言」です。アルバニア独立時に列強からの圧力でアルバニアの土地とされたのですが、同地には多くのギリシャ人が住んでおり、ギリシャ人による武装蜂起が始まったのです。外国からの介入によって停戦、北エピロスに自治権が与えられ、これにて落着だ、と安心した直後、「サラエボ事件」。第一次世界大戦の幕開けです。
最悪に最悪が重なったうえ、最悪が降り注ぎます。
「ムスリムの反乱」、
「ドイツ人貴族、本国へ帰還」、
「ギリシャ軍の越境」、
「イタリアの離反」
これは一体、どうなっちゃうんだ~~~~~~~!?
といったところで、前編を終えたいと思います。本来1回で終わらせる予定だったんだけどね、文献探しに思ったより時間を取られました。文献は最終回に載せます。
文責:抹茶ラテ
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