アルバニアってどんな国?後編
- 1月2日
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最終回です。どうやら、WEBコラム自体も最終回になるようで、最後がこんなのでいいものかというお話ではございますが、さっそく後編としてアルバニアの現代史を紹介していきましょう。
1946年1月11日、アルバニア人民共和国の建国が宣言されます。国のトップはエンヴェル・ホッジャであり、後に出てくる通り、超がつくほどのスターリン主義者。似たような経歴辿っているはずのチトーとは大きく違っているみたいですね……。さて、そんな似た経歴を辿っているユーゴスラヴィアとアルバニアですが、その建国のほぼ直後から大きな壁にぶち当たります。
「「「共産性の違いで国交断絶」」」
本当に現代の国家がやることかな?という感想を持ってしまいますが、ホッジャ政権下のアルバニアはこんな国家なのです。スターリン主義路線に乗らないユーゴスラヴィアと国交断絶というパワープレイを見せましたが、これは本気でして、この断交に難色を示した国防大臣は処刑されています。
では、勘の良い皆様ならお気づきでしょう。「フルシチョフどうなんねん?」と。ソ連において、スターリンは1953年3月に死亡し、次の書記長にはニキータ・フルシチョフが就任しました。そして、彼は「スターリン批判」を展開していますね。はい。そうです。断交です。おいおいおいおい待ってくれ、ソ連と断交だと?という話でございますが、大マジです。しかも、この直後に、国土の50%を勝手に国有化して農民に分配しているので、スターリンよりずっと共産主義者です。ちなみに、1968年のプラハの春以後、ワルシャワ条約機構からも抜けてます。
こんなことしてたら味方がいなくなっちゃうので、アルバニアは味方を探します。できたら個人崇拝っぽい国との方が、ホッジャ的にもありがたいのです。そんな国があるわけ……おや、東アジアにありますね!個人崇拝!!共産主義!!!そう!!!中華人民共和国!!!!
めちゃめちゃに中国を気に入ったアルバニア(ホッジャ)は、アルバニア国内に流通する武器のほとんどを中国製にします。さらに、文化大革命に共鳴して、アルバニアではあらゆる宗教を否定します。これは、1976年に制定されるアルバニアの憲法でも記されており、教会とモスクが封鎖されていました。そして、1971年「アルバニア決議」。これはある意味でいえば妥当な、しかし世界史の流れを大きく変える出来事でした。
国際連合の常任理事国である中国。かつては、中華民国がその地位にいました。現在では中華人民共和国。いつからだって?それは1971年からでしょうよ。だって、アルバニア決議で決まったことだったのですから。この中華人民共和国の優位を示すかのように、1972年にはニクソン米大統領が中国を訪問していました。
ん???え????ニクソンが?中国に???アメリカの?ニクソン????お?????????
きっと、ホッジャはこう思ったのでしょう。1976年、毛沢東が死に、四人組が逮捕されると、アルバニアは遂に!なんと!!中国とも!!!!断交しました。ついで、それに追従した北朝鮮、ルーマニアと断交、ワルシャワ条約機構の面々とも断交を行っています。彼曰く、「修正主義者」なんだそうです。理解に苦しみますね。そう。人々では理解できないため、このあまりに従順ともとれるマルクス・レーニン主義を「ホッジャ主義」と呼び、このホッジャ主義を掲げる政党は世界で見ると割といます。主に南米に。
なんでこんなもんに、という話ですが、ホッジャ政権下のアルバニア、実は識字率が95%を超えており、食料自給率がなんと98%ほどだったそう。2%どうしているのか気になるところですが。
こんな鎖国状態なので、アルバニア政府は、国民に自衛を促すために中国製の余った小銃を配布、さらに国土に大量のトーチカを築きました。
しかし、1985年にホッジャが亡くなり、すこしして社会主義国家の崩壊が始まると、例にもれずアルバニアも社会主義・共産主義を捨てることになります。そして、1992年にサリ・ベリシャをトップとした民主党が第一党になり、市場経済や外資の導入をものすごい勢いで行い、東欧トップ国に躍り出ます。どれだけの勢いだったかというと、アルバニア政府が銀行を建てるのを諦めるレベルです。
は??といった形ですが、銀行は民間に任せることにしていたのです。
ああ。納得ですね。
さらに、この経済成長には、横のユーゴスラヴィアが内戦していたのを良いことに武器輸出ビジネスを行うことで賄われていたようですが、なにやらアルバニアのマフィアが裏で手を引いていたんだとかなんとか。そして、アルバニアの証券取引会社では平均年利10%をたたき出すという、破格も破格の数値でした。おそらく、これはマネーロンダリングに使われていたのだろうというお話でございます。
もちろん、こんなことしていたら、ユーゴスラヴィア内戦が終わったとき、予想できないくらいの事態に見舞われることはお分かりですね?
ユーゴスラヴィア内戦が終わった後、国民の半分近くはこの証券取引に参加しており、そのうちの約半分が破産したというのです。地獄絵図かな。
こんなことをしていたら、当たり前のごとく反乱がおこります。そう。民衆が反乱を起こすのです。述べましたよね「こんな鎖国状態なので、アルバニア政府は、国民に自衛を促すために中国製の余った小銃を配布、さらに国土に大量のトーチカを築きました。」と。そうなのです。国民は小銃を持っていました。武器庫にはまだ在庫だってあります。抑えられなくなったアルバニア政府は、国連軍の出動を待つことになり、鎮圧後の選挙では、アルバニア社会党が第一党になりました。おかえり社会主義といったところです。ただ、社会党では経済の立て直しがままならなかったため、次の選挙ではベリシャ前首相が戻ってきて再選し、さらにその次は社会党が……という状況であり、現在は社会党が与党として国家運営を行っているようです。
ということで、アルバニアについて解説する試みはこれにて閉幕でございます。調べてみるとおもしろい国ですので、ぜひ、皆様も機会があればアルバニアについて調べてみてくださいね。
それでは、2025年もよろしくお願いいたします。
文責:抹茶ラテ
参考文献
マーク・マゾワー著、井上廣美訳『バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史』中公新書、2017年
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』講談社学術文庫、2016年
佐藤徹也編「バルカン史 上」山川出版社、2024年
KRISTO FRASHËRI “THE HISTORY OF ALBANIA (A BRIEF SURVEY)”〈https://november8ph.ca/wp-content/uploads/2023/11/history-of-albania.pdf〉(参照日 2024-12-10)※本書の出版は、1964年である。
三谷惠子「スカンデルベグ物語 伝説とヴァリエーション」『現代文芸論研究室論集』、2020年、p.457-469
中津孝司『アルバニア現代史』晃洋書房、2000年
今野毅「オスマン帝国形成期におけるディルリク発給手続きについて―『ヒジュラ暦835年アルバニア県検地帳の写し』の分析から―」『イスラム世界』55巻、2000年、p.1-22
竹内啓一「イタリアにおけるアルバニア集落とアルバニア人(II)―カラブリア州北部における事例―」『地誌研年報』第6号、1997年、p.51-71
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