「エリザベス朝」の始まり——英国が召した最強の「ガンガン」の最初
- 2024年11月10日
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英国国教会を確立させアルマダの海戦以降、英国の黄金時代を築いたエリザベス1世。1707年合同法により、長く争っていたイングランドとスコットランドの関係に一旦の終止符を打ったアン。世界各地をその手中に収め、ヨーロッパの祖母とも形容されたヴィクトリア。
——齢25の幼き王女はケニアの穏やかな風を浴びつつ、この麗しきリストに自らの名を書き加えた。
Webコラムも2週目ながらネタ切れ気味ではありますが、今回は「史がない女王陛下」の名の元となった某教授のXアイコンでお馴染み、エリザベス2世女王の即位前後について簡単ながらまとめてみました。
時は1952年1月31日、ロンドン西部にある英国最大のヒースロー空港。
戦時中のストレスからか体調不良が悪化した父ジョージ6世に代わり、エリザベスは当時の英領ケニア植民地経由でオセアニアへと向かう旅を始めようとしていた。
映画『英国王のスピーチ』で知られるように、ジョージ6世は吃音に度々苦しめられていた。また国王という座自体、兄エドワード8世の「王冠をかけた恋」により押し付けられた、本来掛ける必要のなかったものである。加えて起こった第二次世界大戦。ロンドンへの空襲時には国王らが住むバッキンガム宮殿も一部破壊され、彼の妻で「クイーン・マザー」の愛称で知られるエリザベズ王太后(当時は王妃)が「これでイーストエンドに顔向けできる」と豪語したことは有名であるが、彼自身もその庭で俄かに爆弾を避け生存するという体験をしている。
このような在位期間においては、一通りの禍が過ぎた戦後に体調が悪化するのも無理がないことであった。それを紛らわすためだったのか、彼はヘビースモーカーでも知られており、1951年には肺癌が見つかり極秘に手術を行なっている。
このため、エリザベスは1948年5月のパリ公式訪問以来、父の名代として各地に訪れていた。
今回の旅行もその一つである。本来は1949年3月に国王自ら赴く予定であったが右足の動脈閉塞に伴う手術を受けたことで延期され、エリザベスにその大役が回ってきたのであった。
いくら法定推定相続人のエリザベスであるからといっても、体調を崩している父の代わりに飛ぶのだから、本来その父は見送りには訪れないのは自明のこと。しかしながら今回はその通例をジョージ自らが覆し、周囲を押しのけ空港まで足を運び見送ったという。
その時この親子が何を話したのかは今は伏せられている。もしくは記録されていないのかもしれない。その様子を彼らの言葉で知るには最短で50年は待たないといけないが、これがこの親子の今生の別れとなってしまった。
夫フィリップと共にケニアに赴いた彼女は、当然いくつものレセプションに待ち構えられていた。蛇足だが、彼らは樹上に作られたホテル「ツリートップスホテル」という猛獣の実態を観察するための樹上のホテルのうち、いちじくの樹に作られたものに泊まっていたという。
これに王女として登り、降りた時には女王となっているのだから、いちじくとかけてもなんとも面白いものである。
ところ変わって英国、2月6日早朝。
国王の寝室係の侍従がいつものように紅茶を持って寝室の扉を叩いた。だが中から返答はなく、不審に思い中へ入ったときにはすでにこと切れていたという。
故に正確な時間はわからないが、かねてより懸念されていた冠動脈血栓症により、ジョージは56歳でこの世を去ったことが各種メディアを通じ全世界に伝えられた。
だが時は20世紀中頃、今のようにインターネットが普及しているわけでもなく通信手段も満足ではない時代である。どうしてリアルタイムにそれを知ることができようか。
実際、ジョージの訃報は現在のケニアの首都ナイロビにある政府公館にも電報として送られていたが、エリザベスがいたホテルまで車で数時間の距離である。しかもホテルに赴いたとして、そこにエリザベスがいるという保証はどこにもなかった。
ここで、ジョージがヒースローまで異例の見送りをしたような奇跡が起こる。
たまたまラジオをつけていた王女秘書官マーティン・チャータリスがジョージ6世の訃報を伝えるニュースを耳にしたのだ。英国時間で6日10時45分のことであった。
そこから話はフィリップ付きの秘書官マイケル・パーカーへと持っていかれる。直接耳に入れれば気が動転する恐れがあるとの計らいであった。しかも彼は万が一に備え、常に王位継承に関する書類を持ち歩いていたという。
彼経由でジョージの訃報がフィリップに伝えられ、ついにその時が訪れる。
ティータイムを終えくつろいでいたエリザベスを庭に連れ出したフィリップ。おそらくは彼のトップ3に入る緊張度合いであっただろう。のちに彼は「世界が足元から崩れた」と懐古している。
父の訃報を聞き涙したというが、テラスから戻ったエリザベスは目がほのかに赤い程度で、不思議なほど平静を保っていたという。
この時、英国時間は6日11時45分。時の首相チャーチルが「The Worst!」と叫んだであろう時より半日も経っていなかった。
直線距離で7000km以上離れる地でありながらこの伝達速度。当時としては異例であり、まさに奇跡であった。
その場で即位名を「エリザベス」とすることに決めた彼女は帰還準備を待つ間、訪れる予定であった各国にツワー中止を詫びる手紙を認めていたという。
イギリス時間で7日には早くもヒースローへ戻り、すぐさま王位継承宣言をすませサンドリンガム宮殿で父と対面した。
そして翌8日には200以上の国家の重鎮らが集まるとされる枢密顧問会議を招集し、今なお正式な王宮であるセント・ジェームズ宮殿で正式に王座についた。
彼女の70年にわたる治世は、こうして幕を開けたのである。
と、簡単ながらまとめてみました。
おそらくは「平静さを保っていた」という言葉や現在の彼女へのイメージから完璧超人という印象を抱いている方も多いかと思います。ですが実際は、存外打たれ弱く繊細な人物だと僕は見ています。そしてそれを隠すのが上手いというのが彼女の最大の武器なのでしょう。
マシューは彼女の少女時代から即位後すぐを「『おちゃめなところ』の封印」という言葉で示しています。そしてそれがやっと解かれたことで、近年の彼女のイメージ——2012年ロンドンオリンピックでのジェームズ・ボンドとの共演、くまのプーさんやパディントンとのコラボ、一般人の結婚式への招待受理など——が彼女本来の姿と合致しやっと表に出てきたのだと僕は考えています。
表題の「ガンガン(Gan Gan)」は彼女のひ孫で現在の王位継承権第2位に位置するジョージ王子がエリザベスを呼ぶ際の言い方で、現在の国王チャールズ3世が曽祖母メアリー・オブ・テックを呼ぶ際や今のプリンスオブウェールズであるウィリアム王太子がエリザベス王太后を呼ぶ際などにも用いられた、実は由緒ある呼び方だったりします。
かのヴィクトリア女王がヨーロッパの祖母と呼ばれたように、エリザベスもまた祖母(ここでは曽祖母ですが)として世界から慕われていたことを示すため、あえて表題に持ってきた次第です。
着地点を考えず書いた結果迷走し墜落しかけていますが、ここらで話を区切り緊急着陸させようと思います。
もはや最後の挨拶すらどうすれば良いか混乱していますので、ここらで失礼します。
Bonne journée!
愛を込めて,
史がない女王陛下
参考文献
Naoko Ogata「追悼エリザベス女王。家族は愛を込めて彼女をこう呼んでいた」ELLE、2022年9月9日、https://www.elle.com/jp/culture/g41128294/queen-elizabeth-nicknames-220909/(2024年11月10日閲覧)
君塚直隆『エリザベス女王』中央公論新社、2020年2月25日
君塚直隆『女王陛下のブルーリボン——英国勲章外交史』中央公論新社、2014年1月25日
マシュー・デニソン、実川元子訳『The Queen——エリザベス女王とイギリスが歩んだ100年』株式会社カンゼン、2022年10月4日
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