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悲惨な大敗北-淝水の戦い

  • 2024年12月1日
  • 読了時間: 6分

 世界の歴史においては、様々な戦争があり、その戦争を契機として社会やその後の歴史が大きく変わることが数多くあります。その戦争の規模については、日本の関ヶ原の戦いのような国内規模のものから、アルマダ海戦のような二国家間のもの、さらには第1次世界大戦や第2次世界大戦のような世界規模のものなど様々です。戦争があれば大抵は勝者と敗者がおり、どちらが勝者ともいえなくとも、戦争をした国は大きな損害を被り、その後の国や世界は大きな変化を遂げていきます。戦争は総じて悲惨なものですが、その中でも戦争の前と後での変化が特に悲惨な戦いが中国史上にあります。それが淝水(ひすい)の戦いです。

 

 まずはこの戦いを紹介する前に、この戦いの時代背景と中心人物を見ていきましょう。場所は今の中国で、時は3世紀末まで遡ります。西暦280年、西晋の司馬炎は江南(中国南東部)の呉(孫氏)を滅ぼし、中国統一を成し遂げました。中国が統一されるのは後漢以来約100年ぶりのことであり、中国はやっと安定の時代に突入したかに思われました。しかし、西晋はそのわずか20年後の300年頃から皇族である司馬一族の間で八王の乱という内紛が勃発し、国内が荒廃し、それに加えて八王の乱では北方や西方の異民族が戦力となったため、数多くの異民族が流入しました。この異民族は、主に匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・羌(きょう)・氐(てい)の5つであり、「五胡」と呼ばれています。

 結果的に侵入した異民族は独自に国家を建て始め、西晋は316年に滅亡してしまいました。西晋の皇族の生き残りの司馬睿(しばえい)は、新たに江南に東晋を建国し、一方の中国北部は諸民族の国家が現れては滅亡する混沌の五胡十六国時代を迎えます。

 

 しかし、五胡の様々な異民族による国家が現れては滅ぶ中で、ついに中国北部を統一する国家が現れます。それが前秦であり、その皇帝が苻堅(ふけん)です。前秦は氐の苻健が351年に長安(今の西安)付近に建国した国家であり、三代目である苻堅が即位すると、有能な部下に支えられながら国力を増強し、北方の鮮卑を抑えつつ、同時期に中国北部に存在した前燕と前涼を滅ぼして西晋以来となる中国北部の統一を成し遂げました。

 苻堅の特徴としては、中国的な教養を身につけており、王猛などの漢人を積極的に採用したこと、異民族の国々の武将を厚遇して自軍に取り込んだことなどがあげられます。王猛は中国史において屈指の名宰相、名将とされており、前秦の躍進に大きく関わっています。また、異民族の武将とは鮮卑の慕容垂(ぼようすい)、羌の姚萇(ようちょう)などであり、彼らは中国北部の統一の際に活躍しました。このように苻堅は様々な民族と融和をはかり、有能な部下を用いることによって中国北部を統一したのでした。

 

 前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題です。ここまででも偉業なのですが、苻堅の夢はさらに大きなものになっていました。それは中国全土を統一することです。中国北部は統一したものの、南部には依然として東晋が存続していました。東晋は様々な国家から幾度となく侵攻を受けていましたが、長江(揚子江)が自然の要害として働き、なんとか存続していました。王猛は既に亡くなっており、遺言として「東晋に手を出してはいけない」と言い残していましたが、北部を統一した苻堅は自信を強め、東晋侵攻を計画し始めます。この侵攻については部下の間で意見が2分しており、侵攻は絶対やめるべきだという者、侵攻すれば東晋を滅ぼすことができるに違いないという者がいましたが、結局苻堅はこの計画を実行し、383年に約100万の軍勢(誇張している可能性もあるが大軍であったのは間違いない)を動員して、ついに苻堅自ら東晋の都、建康(今の南京)へと侵攻します。

 苻堅の軍は淝水(黄河と長江の間を流れる淮水の中流であり、前秦と東晋の国境付近)まで侵軍していました。しかし、前秦軍の内訳は多民族による混合軍であり、統制がとれておらず、士気も低いものでした。一方の東晋は少ない兵数ではありましたが、国の存亡をかけた一大決戦を前にしており、士気の高い軍隊でした。東晋軍の先鋒の謝玄は、淝水の北岸で決戦をしようと前秦軍をおびき寄せ、大軍が集結する前に先制攻撃をしかけ、前秦軍を混乱させました。すると前秦軍は一気に瓦解し、苻堅本人も矢を受けて負傷し敗走。結果として歴史的な大敗北となってしまいました。苻堅は慕容垂の部隊に助けられ、なんとか洛陽までたどり着きますが、ここからがより悲惨でした。

 

 淝水の戦いの大敗北によって前秦は急激に力を失い、国内で鮮卑の慕容垂や羌の姚萇などが独立運動を起こし、最終的には独立してしまいます。実は東晋侵攻に賛成していたのはこうした他民族の実力者たちでした。苻堅の国、前秦は一気に崩壊し、苻堅自身も奮闘しますが、385年に戦いで敗れ、姚萇に捕縛されてしまいます。姚萇は皇帝の位を譲るように苻堅に言いましたが、姚萇を重用してきた苻堅は激怒して拒否し、その後苻堅は殺されてしまいます。苻堅の一族たちはその後も諸勢力に抵抗しましたが、前秦は394年に滅亡してしまいます。前秦は中国北部を統一したにも関わらず、その統一があまりに短期であったため、五胡十六国のうちの一国としか扱われていません。

 淝水の戦いから苻堅の死まではわずか2年の出来事です。混沌を極めた中国北部を統一し、異民族の国を討伐しながら、その異民族の人々を重用するような寛大な人物であった苻堅は理想的な君主でしたが、その理想とは裏腹に現実は非情でした。寛大な処置をした異民族たちに滅ぼされてしまったのです。中国史においては、中国統一後、統一に貢献するなどして力を持った者は皇帝により遠ざけられたり、殺されたりするような非情な対応がよく見られます。この対応は功績のある家臣が可哀想だと思いますが、苻堅のように寛大すぎるとこのように内部反乱が起こってしまうため、ある意味仕方ない対応だったのかもしれないと感じました。

 歴史は基本的に勝者あるいは成功者によって紡がれていきます。その過程で敗北した者は、それまでいくら上手くいっていたとしても、どれだけ立派な人物だったとしても、結末が悪ければ後世になるほど名前は残りにくくなります。勝者の歴史ではなく、失敗してしまった敗者の歴史にこそ多くのことを学べるかもしれません。

 

 


参考文献

世界史の窓「晋/西晋」 https://www.y-history.net/appendix/wh0301-023.html 、2024年11月30日閲覧

世界史の窓「五胡十六国」 https://www.y-history.net/appendix/wh0301-029.html 、2024年11月30日閲覧

世界史の窓「淝水の戦い」  https://www.y-history.net/appendix/wh0301-033_3.html 、2024年11月30日閲覧

世界史の窓「苻堅」 https://www.y-history.net/appendix/wh0301-033_2.html 、2024年11月30日閲覧

Weblio辞書「姚萇とは-わかりやすく解説Weblio辞書」

https://www.weblio.jp/wkpja/content/姚萇_姚萇の概要 、2024年11月30日閲覧


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