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任天堂——花札から始まる135年の歴史

  • 2024年9月29日
  • 読了時間: 12分

 レッド・キャップに髭を蓄えた万能超人25歳やピンクの悪魔、高圧・特別高圧電気取扱特別教育未修了者の命令で10万ボルトを放つネズミ、剣と盾がアイコンの二番手ではない緑の主人公や借金を押し付けてくる狸など、書いていて驚くほど描写しやすいキャラたちを生み出しているあの会社です。あっあれです、人類滅亡後にインクを吐く軟体動物をすっかり忘れていました。

 えっ、某ネズミは違うだって? テレビ画面で10万ボルトを打ち始めた1997年はまだ「親元」なんです。

 

 ……初っ端から蛇足だらけ——というか胴体すら描いていない——でごめんなさい。

 今回のwebコラムは今週月曜日9月23日で創業135周年を迎えられた任天堂さんをピックアップしてみようと思います。

(本当は本社まで行きお話しを伺うくらいはしたかったのですが、私情で叶わず…)

 

 

◯初代 山内房治郎の時代

 時は1889年(明治22年)、山内房治郎が京都市下京区正面通り大橋西イル(現在の鴨川近く)にて立ち上げた「任天堂骨牌」から任天堂の歴史は始まります。この4年前に同氏はセメント販売業の「灰孝本店」を立ち上げていたことから、任天堂骨牌は2事業目であったそう。このセメント販売業は京都市内のコンクリート建築の増加の波に乗り、1918年には国内有数の小野田セメントと契約も交わすほどの成長を見せています。

 

 視点を戻して任天堂骨牌ですが、手掛けたのは花札。我々にとってはカードゲームの一種に過ぎませんが、当時は博打などでも使われていたもので特にプロの博打打ちは1組の花札を1度しか使わないということもあったのだとか。またそうでなくとも、イカサマの防止から札の品質が常に問われていたそうです。

 そして任天堂骨牌が相手にしていたのが彼ら。元々手先が器用だった房治郎はそれによる品質をブランド化、フランス皇帝ナポレオンの絵柄をあしらい「大統領」として売り出す戦略に出ます。(ちなみにこの「大統領」、今も新品が買えます)また花札とタバコの顧客の親和性が高いという着眼点から国内トップのタバコ会社だった村井兄弟商会と取引を開始。房治郎の商才が遺憾無く発揮されています…。

 

 と、順調だった任天堂骨牌ですが1902年にかるた類への課税により周囲では廃業や失業の噂が絶えなくなります。

 ここで房治郎が目をつけたのがトランプでした。当時、輸入一辺倒であったトランプを国内生産することに活路を見出した彼は、先の花札の件により旧知の中であった明治のたばこ王・村井吉兵衛の協力のもと、吉兵衛が全国に持つたばこ販売のルートを利用し販路拡大に成功。昭和初期には全国に名が知れ渡り、カードメーカーとしての任天堂の名が定着していくこととなります。

 

 

◯2代目 山内積良の時代

 とはいえ人間歳老いていくもの。房治郎とて例外ではないものの、彼には後継となる息子がいませんでした。そこで従業員であった金田積良を長女 君の婿養子として迎え入れ、ここに2代目が誕生することとなります。1929年のことでした。

 なおセメント販売業の灰孝本店は次女 孝に譲られ、任天堂は娯楽専業のビジネスへと舵を切ります。

 1933年には手狭となった木造の本店を、当時では珍しい鉄筋コンクリート造りに建て替え合名会社「山内任天堂」を設立。カード類は当時無関税であったことから、新たに進出した輸出業務での利益幅はかなりのものだった様子。京都の東山地区にまとまった土地を買い不動産事業も始めることになります。

 

 その後、第二次世界大戦を挟み1947年11月20日に内山任天堂から販売部門を継承する形で販売会社「株式会社丸福」を設立し、製造・販売を分離することで社内体制の合理化を図ります。この丸福こそ、現代に続く任天堂の直接の起点となる会社です。

 


◯3代目 山内溥

 と、成長の機運を見せつつ、積良自身もまた後継に悩まされることとなります。旧民法において家督相続者は「長男」である必要があるのですが積良には男児が生まれず、長女に婿養子をあてがうも近所の女性と駆け落ち。ここで残るのが、生まれて間もない溥でした。

 

 ——と、ここまでであれば涙ながらに語る人生となりそうな彼ですが、実際はかなりの「お坊ちゃま」でした。

 全国に名が知られる有名企業の実質的な跡取り。京都からはるばる東京の早稲田大学専門部法律科(現代での短大に相当)に学びにゆき、終戦直後の国民の大半が貧しさに喘いでいる最中ビリヤードクラブに通い、当時庶民には到底手の届かないレストランにてビフテキを頬張りワインを空けるという贅沢な暮らしを送っていたそう。(1000円もしないワインで我慢している僕とは雲泥の差)

 

 そんな彼、賭博にも結びつく家業を良くは思っていなかったそう。しかしながら1947年、祖父の積良が倒れたことで京都に呼び戻され決心したのか、丸福創設時には取締役に名を連ねている。

 

 そして1949年、積良の死去を受け溥が3代目として就任する運びとなりました。当時22歳、希しくも初代 房治郎が事業を設立したのと同じ年齢でした。

 この直前、彼は積良に対し社長就任に際して「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」という条件をつけていました。現在では当たり前と言えるものですが、当時はまだ財閥をはじめとした戦前体制の影響が色濃く残る時代。溥にもまた、時代を見据える力があったのでしょうか。

 

 1950年、溥は積良が行った製造と販売の分離を取りやめ、丸福に束ねるという決断を行います。社名を「任天堂骨牌株式会社」と改めます。加えて1952年には京都市内に分散していた製造所を京都市東山区福稲上高松町にまとめ、木造ながらに大きな工場を建てた。ここには、花札作りという嫌悪感のある家業を大学生活の最中首都で見た大企業に並ばずとも劣らない立派な事業にしたいという思いがあったそう。

 

 一方で、花札をはじめとしたカード類は先に触れたように元来手作りのもの。それを工場で作るとなると、古くからの従業員の反発は必死でしょう。任天堂骨牌も例に漏れず、また当時激化していた全国各地での労働争議の煽りを受け労働組合によるストライキが発生します。それに対し溥は工場を閉鎖したり名古屋に別会社を設立したり、時にはホテルやお寺に拠点を作るなど対処に躍起となっていたよう。

 実際、当時ですらマスコミに横暴なやり方だと非難され、京都の労働運動史にも名を刻むという不名誉を被る惨劇。

 決着がついたのは1955年で、体調を崩し入院しながらの労働交渉であったと言われている。この約5年間が経営者としての信念や決断力に大きな影響を与えたと言われ、これが原因なのかは定かではないが現在でも任天堂に労働組合は結成されていない。

 

 そんな激動の最中、任天堂骨牌は確かに成長を続けていたのです。

 1953年には日本初のプラスチック製トランプを発売しています。従来の紙トランプは折れやすく、手の脂が付着するなど欠点が多く、消耗が著しいものでした。そこで1年以上かけ新素材を開発。当初は倍近い値段から伸び悩んだものの、その品質の高さへの理解と高度経済成長というビッグウェーブにのり売り上げを伸ばしていき、任天堂骨牌の売り上げは3億円台に上昇します。

 

 とはいえトランプなどはまだ大人の遊び。そこにふんわりと噂が流れ込んでくる——。

 

   最近、子供たちの間でディズニーアニメが流行ってるって。

 

 1959年11月、アメリカのウォルト・ディズニー社との交渉の末、ミッキーマウスなどのキャラクターを絵柄にしたディズニートランプの独占販売権を取得してしまいます。これには遊び方のルールブックなどをつけたほか、テレビCMなど広告媒体も大いに活用したことで、子供たちの間で爆発的なヒットを生みました。しかもそれに乗じて全国の百貨店や玩具店、文房具店など、販売ルートの拡大にも成功してしまう任天堂骨牌。最近のツイステッド・ワンダーランドなどの原点はどうやらここにあったようです。

 

 またこのディズニー効果により1962年には大阪証券取引所第2部と京都証券取引所第2部に株式上場を果たし、国内シェア80%を保持し「トランプといえば任天堂」と呼ばれるほどに。加えて自己資本比率も改善させ、好不況の影響を受けやすい娯楽産業における安定も図っていました。

 一方で京都の中堅企業にすぎなかった任天堂骨牌は、まだまだ全国的な知名度の低い企業であることに変わりありませんでした。

 


◯任天堂の低迷期

 さて溥は1956年、当時世界最大といわれたアメリカのトランプ会社「U.Sプレイング・カード」の工場を視察していました。ですがその規模に落胆、カード製造事業の将来に漠然とした不安を感じることとなります。

 そして祖母の反対を押し切り、事業の多角化へと舵を切ることになりました。

 

 まずは1960年のタクシー事業「ダイヤ交通株式会社」。それなりの規模へと発展していったようですが、労働組合との交渉決裂により1969年に名鉄グループへと事業を譲り経営から手を引くことになります。

 またインスタント食品にも目をつけ、近江絹糸、京都大学生活研究所らと共同で「三旺食品株式会社」を設立し、1961年に任天堂骨牌は事業を引き受けています。ですがこれはあまりうまくいかず、1965年に撤退しています。

 

 こうした挑戦を重ねながらも1963年、新たなる飛躍を求めビジネスを成長させたいという思いから、社名からかるたを意味する「骨牌」を取り除く決断をします。ここに、現在の「任天堂株式会社」という社号が誕生したのです。

 

 とここで、本業にも逆風が吹き始めます。ディズニートランプも5年が経った1964年の東京オリンピック時には売り上げが落ち始め、経営の多角化も失敗。会社の利益は減少していきます。

 

 

◯娯楽企業であるという構え

 企業として迷いを見せていた1965年、横井軍平という男が入社したことをきっかけに任天堂は再出発を果たすこととなります。

 

 彼は同志社大学工学部を卒業後に任天堂へ就職しますが、任された製造設備の保守点検が暇だからと自作のおもちゃを作り遊び始めるのです。

 それを見つけた社長 溥、彼を呼びつけ怒鳴り込むかと思えば新商品の開発を任せてしまいました。

 

 そしてできたのがマジックハンド「ウルトラハンド」でした。

 1966年当時、10万個売れれば大成功と言われていたところを120万個売り上げ、ディズニートランプ以来の盛り上がりを見せつけます。その後も1968年の家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」を始め様々なアイデア玩具を生み出し続け、売上高は1967年の17億円から1969年の34億円と、たった2年間で倍増する始末。「トランプの収益によって新規事業を育成する」という目論見が瓦解した瞬間でもありました。

 

 とはいえ数年のヒットと低迷を繰り返しており、未だ安定とはいえない任天堂。しかしながら、技術を生かした商品開発という、その初期にも見られた路線へと舞い戻ることとなった任天堂は、ゆっくりと地盤を固めていくことになります。

 

 さて、世間は1970年を跨ぎ、ボーリングブームに翳りを見せつつある頃。これを利用できないかと考えた溥は1973年、社運をかけ莫大な資金を注ぎ込み大型レジャー施設「レーザークレー射撃システム」をオープンさせます。これはスクリーンに映る円盤をレーザー銃で撃ち抜くという、この時代では新しいものでした。

 反応は上々。メディア取材も去ることながら、全国の閉鎖を考えていたボーリング場からの注文が殺到し、任天堂側も波に乗らんとメンテナンスなどを行う「任天堂レジャーシステム」を設立して準備します。

 

 と、ここで襲ってくるのが第一次オイルショック。キャンセルが続出し、負債は50億円にまで及び、深刻な経営難となってしまいます。

 しかしながらここで培った技術と販売ルートが、我々の知る「ゲーム機」を生み出すこととなるのです。

 

 1978年にはビデオゲームの開発に着手し、アーケード向けに「コンピューターオセロゲーム」を発売します。当時はタイトーの「スペースインベーダー」が流行っていた時代。この波に乗る形で業務用ビデオゲーム機により売り上げを重ね、負債を解消していきます。

 さらにこのアーケード、任天堂にとっては合理的で無駄なく低コストでつくる生産技術を身につける絶好の機会だったようです。

 

 

◯家庭用ゲーム機への進出

 これはwebコラムの分量なのだろうかと疑問を覚えつつ、ようやく我々の知り得る時代になりました…さすが135年。

 

 1977年、任天堂は家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム6」、「カラーテレビゲーム15」を発売します。当時モノクロ画面で2、3万円であった家庭用ゲーム機業界においてカラー画面で1万円を切る値段で飛び込み業界を震撼させた任天堂。1万台売れればヒットという時に「6」「15」合わせて100万台も売ってしまいました…。

 

 さらに1980年には皆さんご存知、携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」を発売。任天堂、波に乗ります。乗りまくります。

 1974年のオイルショックによる不良在庫で50億円の負債を抱えていた任天堂ですがこの「ゲーム&ウォッチ」により、さらに膨れ上がっていた70億円の負債を軽く返済した上で翌年には売り上げを600億円越えまで持っていくというバケモノ具合。

 その波に乗り続け、任天堂はとうとう伝説の家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピューター」を世に放ってしまうのです…。

 

 溥曰く、当時としては性能が高く、アーケードで大ヒットした「ドンキーコング」が遜色なく動くほどの性能が功を奏したとか。

 1985年には他社からも発売されていた中で家庭用ゲーム機のシェア8割を奪取しています。

 

 その後は1985年のファミコン用ソフト「スーパーマリオブラザーズ」発売とともにファミコンの地位を不動のものとし、1988年にはエニックス(現、スクウェア・エニックス)から発売されたファミコン用ソフト「ドラゴンクエストIII」で社会現象を巻き起こすなど、コンピューターゲーム業界で大きな存在感を示すこととなります。

 

 

◯最後に

 思いつきで書き始め早4時間、100年越えの歴史を舐めてました。

 

 先見の明や経営者の商才などに恵まれながらも、ほのかに感じるのは失敗をそのままにしていないということでしょうか。これだけの歴史をかけているのですから当然、ここには書ききれないほどの「やらかし」があるのだろうと推察します。それをどう吸収したのか、飲み込んだのか。そこに、我々が学ぶべき姿勢があるように感じます。

 さて、イギリスの諺に「It takes three generations to make a gentleman.(紳士をつくるには3代かかる)」というものがあります。また似た意味の諺として、フランスには「Rome ne s'est pas faite en un jour.(ローマは1日にしてならず)」というものがあります。当然ながらこれらは、ただ時間をかければ良いものができるという意味ではありません。先のイギリスの諺に倣えば、初代が紳士としての教育を施した2代目が教育を施した3代目が自ら学ぶことで紳士となる、という語用論的には様式の公理に反しそうな例を挙げますが、長い時間の中で絶えず学んでゆくからこそ、素晴らしきものが生まれるのではないでしょうか。

 

 本学閉門の放送がかかったのでこの辺で筆を置きたく思います。

 

愛を込めて,

史がない女王陛下


参考文献

「花札から始まった任天堂 独自の事業展開で急成長、新規市場も開拓」日経ビジネス、2022年3月31日、https://business.nikkei.com/atcl/plus/00003/032900015/ (2024年9月25日閲覧)

「異業種参入で失速した任天堂 玩具、ゲーム機でV字回復に至るまで」日経ビジネス、2022年4月5日、https://business.nikkei.com/atcl/plus/00003/033100016/ (2024年9月25日閲覧)

「会社の改革」任天堂ホームページ、2024年8月14日、https://www.nintendo.co.jp/corporate/history/index.html (2024年9月25日閲覧)

「任天堂の歴史」The社史、2023年11月3日、https://the-shashi.com/tse/7974/(2024年9月25日閲覧)

「花札・株札」任天堂ホームページ、2024年5月13日、https://www.nintendo.com/jp/others/hanafuda_kabufuda/index.html (2024年9月25日閲覧)


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1 Comment


Unknown member
Sep 29, 2024

USJの任天堂エリアやイルミネーションと合同で制作されたSuper Mario Bros.movieなどの体験型施設や映画産業など様々なエンタメ分野に拡大する任天堂さんの将来に期待。

明後日開館する任天堂ミュージアムにも要注目?

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