台湾の英雄「鄭成功」は日本でも人気
- 2024年10月20日
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皆さんは鄭成功(ていせいこう)という人物を知っていますか?鄭成功とは台湾の英雄といわれる人物であり、17世紀中頃に中国や東シナ海などで主に活躍した明の政治家、軍人です。17世紀、18世紀には台湾のみならず日本でも人気がありました。なぜ外の情報が入りづらい鎖国下の日本でも彼は人気があったのでしょうか?
まずは鄭成功の経歴について見ていきましょう。鄭成功は日本の平戸(長崎県平戸市)を根拠地として活動していた中国人海商の鄭芝竜(ていしりゅう)を父に、日本人の田川マツを母に、1624年7月14日に生まれました。当時の平戸は、外国への窓口として平戸商館が置かれていた時代であり、明だけでなくオランダやイギリスの商館も置かれていました。
鄭芝竜は当時の平戸藩主からかわいがられており、また機知に富んでいたため徐々に頭角を現し、日本・台湾を拠点に東アジアにおける最大の海商集団の頭領となりました。後に明朝の誘いに応じ帰順すると台湾への進出を行ないました。当時はオランダが台湾に進出してきており、それに対抗するためでした。一方の鄭成功は、わずか7歳にして単身で父の故郷中国福建省南安に渡り、その後南安県学の学生となり、儒教について学び、修めます。
1644年に清が明へと侵攻し、崇禎帝が自殺して明が滅亡すると、明の王室は鄭芝竜・成功親子を頼って明の復興を策し、清朝に対抗しました。鄭氏親子は福建で明の皇帝一族の朱聿鍵(唐王)をたてて隆武帝として擁立しました。1645年、鄭成功が21歳の時、隆武帝から、明王朝の姓(国姓)である朱姓を賜り、「国姓爺」(「国姓を賜った旦那」のような意味)と呼ばれるようになりました。
鄭成功は華南(中国南部)一帯に残存する明の皇族や遺臣を統合して反清復明運動を起こしました。翌年、清軍は隆武帝を捕らえ、父の鄭芝竜に官職と引き換えに降服を促すと、鄭芝竜は清と交渉しようとして北京に赴きましたが、軟禁されてしまいました。その後、1661年に鄭芝竜は処刑されてしまいます。残されたその子鄭成功は華南の厦門(アモイ)を拠点に反清復明運動を激しく展開しました。
1659年には南京を奪還しようとしましたが失敗してしまい、それに対して清は1661年、華南の福建・広東などの沿岸に遷界令(沿岸地方の住民を内地に強制移住させて無住地帯とし、鄭氏一族との交易をできなくしようとしたもの)を出し、鄭成功を屈服させようとしました。しかし、鄭成功は同じく1661年に2万5千の大水軍を率いてオランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を攻撃、翌年その勢力を追放して、オランダの台湾支配は終わりました。その後、鄭成功は台湾に政府を設置し法律を定め、開拓を行い、民を養い大いに時運の挽回を図りました。こうしてつくられた政府は、台湾における最初の漢人政権でした。
このように鄭成功は不利な状況ながらも清に対して戦いを続けていましたが、1662年39歳の若さで病死しました。そのあとは子の鄭経が厦門から移って意志を継ぎました。鄭氏による台湾支配は三代、22年にわたりましたが、鄭成功の孫の代で内紛により弱体化し、1683年に康煕帝によって征服されました。
実は鄭成功は何度か江戸幕府に応援を要請しており、明と清の争いは日本でも関心が持たれていた国際的な出来事でした。鄭成功が父を殺された清に復讐し、明を復興させようとする話は、日本でもよく知られ、英雄視されていました。しかし、江戸幕府は1650(慶安3)年、長崎などで中国人から情報を集め、明復興が困難であると判断し、鄭成功の要請を断りました。
このとき、明と清の争いに介入して大陸に出兵しようという主張もかなりあったそうです。現代と同じような海外派兵の要請が江戸時代にあったことは興味深いですが、時の幕府が海外派兵をしなかった(あるいはできなかった)判断は歴史的に見ると正しかったと思われます。
このように鄭成功は台湾をオランダの支配から解放し、漢人政権を立てた人物であるため、台湾の祖として、台湾でとても人気があります。ここまで読んでくださった方は何となく鄭成功が日本で人気である理由がわかると思いますが、一応述べさせていただきます。
鄭成功が日本で人気である理由としては4つのことが考えられます。
1つ目は、彼が中国人と日本人のハーフであり、生まれ育った地が日本であることです。7歳の頃に中国へと移ったため、日本にいた時間はわずかではありますが、当時の日本人は親近感を覚えていたと考えられます。
2つ目は、彼が忠義の人物であり、また不屈であったことです。彼は経歴からわかるように苦しい戦いを強いられていたにもかかわらず、明の復興のために巨大な勢力の清と戦い続けました。明に仕え始めたのは父の代であり、決して明朝とのつながりが長いわけではありませんでしたが、亡くなるまで国のために戦う姿勢は当時の日本人の武士や民衆の心を打ったと思われます。また、父の鄭芝竜が捕らえられ、最終的に殺されたことへの復讐をしようとする姿勢が、当時の仇討ちを美徳とする思想のあった日本では評価されたと考えられます。
3つ目は悲劇の人物であることです。彼は実は父だけでなく、母も清軍の攻撃をうけたさいに亡くなっています(母は敵に降伏することなく自害しています)。また、早世してしまい、最終的には明は完全に滅亡する未来をたどってしまったことも、彼を悲劇の人物として印象づけています。
4つ目は、鄭成功を題材にした作品が日本で人気を博したことです。その作品とは近松門左衛門作の「国姓爺合戦」という人形浄瑠璃作品であり、おおまかなあらすじとしては、「明の遺臣鄭芝竜が日本人妻との子、和藤内(鄭成功)を伴って明を再興する」というものです。この作品は鄭成功が実際に活躍した時代からは少し後につくられたものですが、大ヒットし、鄭成功がさらに人気の人物になりました。
以上の理由が、鄭成功が日本で人気であった理由です。私自身は鄭成功について高校世界史・日本史のレベルでしか知りませんでしたが、詳しく知ると彼に親近感を覚えますし、尊敬できる人物であると思います。また、このように学校の授業で名前と簡単な業績しか教えられなかった人物も詳しく知ると様々なドラマがあります。一人一人の歴史上の人物の人生を物語を読むような気持ちでたどっていくと、新しい発見があることが、歴史を学ぶ醍醐味の1つであると私は思います。
参考文献・サイト
全国歴史教育研究協議会「日本史用語集 改訂版 A・B共用」山川出版社、2021年12月15日
平戸観光協会「鄭成功記念館 長崎県平戸市-鄭成功とは」
https://www.hirado-net.com/teiseikou/about.php 、2024年10月19日閲覧
世界史の窓「鄭成功」 https://www.y-history.net/appendix/wh0802-007.html 、2024年10月19日閲覧
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